宮本がボーカルとギター、そして作詞・作曲を担うバンド、エレファントカシマシは1994年のアルバムを最後に、いったんレコード会社との契約が切れた。眉間にしわを寄せて言う。「やっぱり、その頃から意識し始めた。売れなきゃ話にならないって」
結成は81年。中学の同級生である石森敏行、冨永義之、そして冨永の高校の同級生、高緑成治が加わり、86年には現在の4人になった。力強いロックサウンドに、熱いボーカル。レコード会社のオーディションで入賞するなどし、88年、バンドはメジャーデビューした。「鳴り物入りだった」との言葉通り、同年秋には、注目の若手バンドとして読売新聞の紙面にもその名が登場する。
だが、人気は定着しなかった。客席を暗くせず、明るいまま公演を行うなどの、奇をてらった面が目立ったのかもしれない。「レコード会社の人も事務所の人も、私たちの音楽が好きだったし、こいつらを売りたいと思ってくれた。熱いファンもいて……」。しかし、そんな彼らの思いに「私が応えきれなかった」。
契約終了。絶望も覚えた。結婚し、家庭を持ったメンバーもいる。「まだ修業だ。全然力を出していないから」と自分に言い聞かせた。けれど、屈託なく楽しそうにしている若者を町で見かけると、夢破れた自身と対比してしまう。
「冗談じゃないよ」と涙があふれた。
「あんたも、もうちょっと分かりやすい曲作れば良かったのにね」。年末、テレビを見ながら親類が明るく言った。「両親もおばちゃんもみんな、売れ線のものを歌えってさ。でも僕らまだ若かった。次の音楽的な道筋も見えて来てたんだ」
考え方を変えた。斜に構えるかっこよさは横に置き、ヒットを飛ばす歌手らの曲を聴きあさった。小沢健二やスピッツ、Mr.Children……時代の主流の音を吸収し、力を蓄えていった。
新たなレコード会社との契約にこぎ着け、96年に「悲しみの果て」をシングル曲として発表。「涙のあとには 笑いがあるはずさ 誰かが言ってた」と、苦しみの中でこそ見える希望を素直に歌い、多くの人の心をつかんだ。
リリース前、東京・下北沢のライブハウスで披露した。客は約50人。皆が真剣に聴き入るのを実感した。バンドは、ライブハウスでたたき上げたのではなく、オーディションからパッと世に出た。だから、「肌身で触れ合う感覚。すごく新鮮な、でも当たり前で健康なロックバンドの姿を、我々はやっとそこで獲得できたんだと思う」。
ここが「再デビュー」地点になった。そして翌97年には「今宵(こよい)の月のように」が初めてシングルチャートでトップ10入り。ファン層は拡大し、人気は確固たるものになっていく。(池内亜希)
だから悲しみの果てはいい曲なんだ
その1曲だけだよエレカシは
ポニーキャニオンと契約決まる前のライブは
バンドが前向きに変化しているのがわかって
新曲はどれも神がかっていた
2-3発あるな
一発当てただけで一生豪遊できるほどの大金稼いでるんだから成功者でしょ、今でもその一発で仕事貰えてるんだから
君のような底辺は人生で一発も当てることなく死んでいくだけよ
でもマネージャーかなんかに大金持ち逃げされたんだよね
Eテレで活躍しているトータスさんと一緒にすんなよ
あさイチで暴れ倒した宮本さんなめてんの?あ?
その通りなんだが何故かそれに気付かないクリエイター気取りが多い
カバー良くない、オリジナルにしてくれ
現実は厳しい
デーモン小暮の体験談によると、ソロとして某メジャーレーベルと契約する際に
「あなたのオリジナル曲は売れる見込みがないので予算は降りない」とハッキリ言われ、
「だからまずカバーアルバムを3枚作りましょう。オリジナルアルバムの予算はその売上から捻出します。不服なら契約は無しだ」
と条件を突きつけられてやむなく飲んだそうな
カヴァーってことは印税入らないからな
いくらカヴァー音源が売れようが
オリジナルが売れないのと同じこと
昭和には
レーベルや事務所の宣伝力があったが
今は事務所、レーベルごり押ししても全く売れないからな
まだインディーズで好きなことやってた方が
コアなファンはつくよ
何年やってると思ってんだ
ヒートウェイヴ山口の元妻
それよ、わりと大人になっても斜に構えてたよな。
あのケンカ見て冷めたわ。